※この文章は連載の第5話です。
▶︎ 第1話から読む
人は、いつから「迷ってはいけない」と思うようになるのだろう。
何が好きで、何に心を動かされ、
どんな場所で生きていきたいのか。
それらを探している途中にあること自体が、
まるで不完全であるかのように扱われることがある。
最近、その問いが、
以前よりも少し現実味を帯びて、
私の中に戻ってくるようになった。
けれど本来、
迷うことは、
自分自身と出会おうとする過程なのではないだろうか。
私はこれまで、
境界に立ちながら、
何度も立ち止まり、選び直しながら生きてきた。
そしてその経験が、
今、私自身の中で、
ひとつの問いとして、静かに形を取り始めている。
人は、社会の中で他者と関わりながら生きている。
誰かの存在に触れ、その中に身を置くことで、
私たちは初めて自分自身の輪郭を知っていく。
世界を五感で味わうこと。
喜びだけでなく、苦しみや悲しみを抱え、
魂が震える瞬間を生きること。
それらすべてが、人間にとって自然で、尊い営みなのだと思う。
それらをなかったことにせず、
抱えたまま、表現へと昇華させていく。
その内側で生まれた震えを、外へと差し出したとき、
表現は芸術になる。
数字では決して測ることのできない、
一人ひとりの存在そのものに、
かけがえのない価値が宿っている。
私はこれまで、ずっと境界に立って生きてきた。
文化と文化のあいだ、
社会と芸術のあいだで、
自分がどこに属しているのか分からなくなるような
アイデンティティの揺らぎを、何度も経験してきた。
それを乗り越えるきっかけになったのは、越境だった。
国を越え、文化を越えたことで、
私は初めて、自分自身を外側から眺める視点を手に入れた。
世界は広く、
そこには無数の価値観や生き方がある。
その事実を、
頭ではなく、身体で知った。
ここに至るまでの内側の変化については、
▶︎ 第4話|(第4話の正式タイトル) で綴っている。
実は私は、
かつて日本で、数少ない芸術専門教育を行っていた
高校の演劇科で学んでいた。
劇表現、演劇論。
クラシックバレエ、ジャズダンス。
日本舞踊、狂言、歌、ミュージカル。
舞台芸術、舞台装置や道具に至るまで、
舞台に関わるあらゆる分野を学ぶ日々だった。
構想としては、とても素晴らしかったと思う。
けれど正直に言えば、
あの時間は、思い出すのがしんどいほど苦しかった。
理由は、はっきりしている。
私は、芸術を学ぶ生徒として入学したが、
同時に、
表現と競技のあいだに位置する
高度な身体技術を求められるスポーツに、
推薦という形で関わっていた。
宝塚北高校には、
全国大会に出場するほどの、厳しく強いスポーツ部があり、
私はその一員として、
部活動への全力投球を求められていた。
つまり私は、
芸術を専門的に学ぶ生徒としても、
競技スポーツの選手としても、
どちらに対しても
「中途半端であってはいけない」
という期待の中に置かれていたのだ。
あまりにも「広く、すべて」を求められる環境だった。
当然のように、私は行き詰まった。
どちらも全力を求められ、
どちらも手を抜くことは許されない。
両立ができなくなったとき、
私は悩んだ末、
退学する覚悟で、部活を辞めたいと相談をした。
部活の顧問からは、
それがどれほど重大な選択かを強く告げられ、
正直に言えば、
脅しのように感じる言葉もあった。
けれどそのとき、
演劇科の主任の先生が、こう言ってくれた。
「部活を辞めるからといって、
学校まで辞める必要はない。
自分を、そこまで追い詰めなくていい。」
その一言で、私は初めて、
「選び直しても、ここにいていいのかもしれない」
と思えた。
結果として私は、
部活を辞め、
学校には残り、
演劇科を卒業することができた。
それは、
何かに勝ったという話ではない。
ただ、
自分が壊れない選択を、
初めて許された経験だった。
私と同じように、
スポーツ推薦で入学した生徒が、もう一人いた。
彼女は、
部活を続けることを選び、
その厳しさの中で、やり続けていた。
だから私は、
あの環境が「間違っていた」と言いたいわけではない。
ただ、
人によって、
耐えられる重さも、
向いている形も違う。
そして本来、
その違いは、
比較されるものでも、
優劣をつけられるものでもないはずだと思っている。
その後、
彼女は芸術とは関係のない道に進んだと聞いた。
あれ以来、
私たちは一度も会うことはなく、
連絡を取ることもなかった。
それでもなぜか、
今でも彼女のことを思い出すと、
胸の奥に、
小さな罪悪感のようなものが残る。
それは、
誰かの選択が間違っていたという話ではない。
ただ、
同じ場所から出発し、
違う道を選んだという事実が、
私の中で、
簡単には消えなかったのだと思う。
一方で、
ヨーロッパのコンセルバトリオは、
まったく違う構造をしている。
午前中から昼頃までは、
仲間とともに一般教養を学ぶ。
その後、それぞれが校舎を移動し、
自分の専門分野へと向かう。
フラメンコの人はフラメンコへ。
クラシックバレエの人はクラシックバレエへ。
音楽なら、
チェロはチェロ、
ピアノはピアノへ。
もし、やってみて「違った」と感じたら、
立ち止まることができる。
やめることも、
選び直すこともできる。
そして、戻りたければ戻ることもできる。
その仕組みを、
私は理屈としてではなく、
身体の感覚として理解した。
学び続けることと、
一つの道に縛られることは、
同じではない。
自分が何に惹かれ、
何に心を動かされ、
何をやってみたいのか。
その基準は、
知識や言葉だけではつくれない。
実際に見て、触れて、感じることでしか、
育たないものだと思う。
そしてその過程には、
迷う時間や、
立ち止まる余白、
引き返せる道が必要だ。
AIの進化とともに、
世界の働き方や価値基準は、
静かに、しかし確実に変わり始めている。
効率や正確さだけでは測れない、
人間としての在り方が、
これまで以上に問われる時代に入っている。
そんな中で、
人が人として生きるための感性を磨くこと。
文化や芸術に触れ、
魂が震える経験を重ねることの価値は、
これから確実に高まっていくと、私は感じている。
だから私は、
早く決めさせる教育ではなく、
何度でも選び直せる教育を、
越境する視点を持てる教育を、
次の世代に手渡したいと思うようになった。
それは、
学校を作りたいという話ではない。
人が自分自身になるための「場」を、
どう設計するか、という問いなのだと思う。
こうして言葉にしながら、
私自身も、少しずつ気づき始めている。
この問いは、
もはや私一人の内側だけで完結するものではない。
人と出会い、
場に触れ、
誰かの人生の入り口に立ってしまったとき、
私は初めて、
この問いが外に向かって開いていくのを感じた。
境界に立ち、
越え、
そしてまた選び直す。
その繰り返しの中で、
私はこれから、
世界とどう関わっていくのかを、
問い続けていくことになるのだろう。
▶︎ 第6話|近日公開


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