※この記録は、第1話から続いています。
▶ 第1話|出会いの序章を読む
マドリードでの暮らしが始まった頃、
私はまだ何ひとつ分かっていなかった。
戸惑いながら過ごした日々が、
やがて “自分の半分” と向き合う
長い旅へと続いていくことも。
あの小さな始まりが、
11年かけて深まっていく気づきの入口だった。
— 初めてのスペインと、お互いを知るための1ヶ月 —
初めてスペインへ行ったのは、
舞台が終わり、彼らがスペインへ帰ってから1ヶ月後のことだった。
舞台の熱気と、あの魔法のような一体感。
それが現実に戻れば、ゆっくりと薄れてしまうのではないか——
そんな冷静な思いも、どこかにあった。
距離が離れれば気持ちも落ち着くはずだと思っていたのに、
なぜか私たちの想いは逆に深まっていった。
そして決めた。
「お試しで1ヶ月、スペインで一緒に暮らしてみよう。」
それが、私の初めてのスペインだった。
■ 空港に降り立った瞬間の“ウキウキ”
マドリッドの空港に初めて降り立ったとき、
スペイン語のアナウンスはまったく理解できなかった。
けれど胸の中にあったのは、
不安よりもワクワクの方がずっと大きかった。
知らない国、知らない空気。
字幕のない映画の中に入り込んだようで、
景色のすべてが新鮮だった。
彼が迎えに来てくれていたこともあり、
心の中の“未知へのときめき”が勝っていた。
「お試しで1ヶ月」という期限があったことも、
私を軽やかにしていた。
ただ、その裏側ではときどき、
“ここでひとりで生きていくのは簡単じゃないだろうな”
という小さな影のような予感が胸をかすめることはあった。
けれどその影が、
のちに本当の“孤独”として現れてくるのは、
もっとずっと後——
移住して本格的に生活を始めてからのことだった。
■ 共通言語は英語——奇跡のような巡り合わせ
私たちが唯一共有できる言語は英語だった。
フラメンコ界で、彼は——
少なくとも私の知る限りでは——
唯一英語を話せるアーティストだった。
今思えば、それだけで奇跡のような巡り合わせだった。
もちろん、お互いネイティブではない。
細かいニュアンスが伝わらず、
翻訳アプリ片手に必死になる事も多かった。
それでも、
言語をひとつ共有できるというだけで、
異国での心細さは驚くほど軽くなった。
だからこの1ヶ月は、
スペインを知る時間であり、
同時に
お互いを深く知るための時間
でもあった。
■ クリスマス、家族の温かさに触れた時間
最初の1ヶ月は、ちょうどクリスマスの時期だった。
スペインでは家族が集まる大切な季節。
そんな特別な時間に、
彼は私を迷いなく家族へ紹介してくれた。
言葉はまったく通じなかったけれど、
彼のお母さんやお姉さんたちは驚くほど自然に迎えてくれた。
家族の笑い声、温かな食卓、名前を呼ばれる安心感。
その雰囲気だけで、
“ここにいても大丈夫”と感じられた。
会話の橋渡しは彼が丁寧に務めてくれた。
私が置いていかれないように、
スペイン語と英語を何度も往復しながら。
休日には、
彼はスペイン各地に連れて行ってくれたり、
舞台やタブラオの仕事現場にも連れて行ってくれた。
見知らぬ街の風景だけでなく、
彼が日々立っている“フラメンコの世界” に触れたことは、
言葉以上に深く心に残った。
コミュニケーションの壁は確かにあったけれど、
彼の姿勢や家族との関わり方をそばで見ているうちに、
私は静かに確信を持った。
「この人となら、きっと乗り越えられる。」
この1ヶ月は、
スペインを知る旅であると同時に、
彼という人を深く知る旅でもあった。
■ “半分の自分” と出会う予感
私は混血で、アジアとヨーロッパ、
ふたつのルーツを持っている。
日本で生まれ育ち、
ヨーロッパ側にはほとんど触れずに生きてきた。
でもスペインの街に立つと、
どこか懐かしいような不思議な感覚があった。
理解できない言葉ばかりの世界なのに、
体の奥がこの土地に反応するような、軽い震え。
これはただの海外滞在ではなく、
半分の自分を辿る旅の始まり
だったのかもしれない。
■ 迫られた決断——滞在期間残り1週間で
穏やかで心地よい時間は流れたけれど、
私たちには現実的な問題があった。
滞在期間が残り1週間となった頃、
どうしても“擦り合わせ”が必要になった。
もし一緒になるなら、
私は日本での生活をすべて手放し、
もう一度スペインへ戻らなければならない。
家族、仕事、住まい。
積み重ねてきた人生を離れるという選択の重さを、
私は誰よりも知っていた。
そしてもうひとつ重要な現実があった。
ヨーロッパでの“結婚”は、日本とまったく違う。
法的にも手続き的にも非常に重く、複雑だ。
だから近年は、
Pareja de hecho(事実婚) という制度を選ぶカップルが多い。
形式に縛られず、関係そのものを大切にする生き方が
広く受け入れられている。
そんな国で、
私たちはどんな形で未来を築くのか?
スペインに残るのか、
日本に戻るのか——
滞在期限が迫る中、
私たちは避けられない決断と真剣に向き合い始めていた。
■ おわりに
ウキウキした1ヶ月の裏側で、
未来を選ぶための重い問いが
静かに私たちの前に横たわっていた。
このときの私はまだ知らなかった。
ここから先にある“本当のスペイン生活”が
どれほど濃く、
どれほど多くの学びと変化を運んでくるのかを。
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第2話|帰る場所を探して


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